遠慮の塊

 スタッフルームの机の上に、一週間以上前から、チョコレートの箱が置いてある。
頂き物である。いろんな形、味の一口サイズのチョコレートがきれいに並んでパッケージされている。わがスタッフたちがどのようなルールで分けたのかはわからないが、おいしく頂いたであろうことは容易に想像がつく。結構高価そうなチョコであった。わがスタッフは、美容と健康(と体重)を気にする年頃が多いので、食べていない人もいるかもしれない。でもおいしそうな色合い、形、匂、意匠に誘惑されて、思わず手が出そうなチョコであった。頂いたその日に、私も三個ほどおすそ分けしてもらった。
 さて、夕方の帰宅時、私はスタッフルームを通過するが、いつまでたっても箱が置いてあるので、時々中を覗いてみた。三日前から、いっこうに数が減らない。三日前、二日前、昨日、そして今日と、同じ数である。チョコレートの数をわざわざ数えたのかって?いいえ、違います。数えなくとも、見ただけでわかります。たった一粒残っているのみですから。
 三日前、 あれだけあったのに、もう一つしか残ってないのか。
 二日前、 あれ、まだ一つ残っている。
 昨日、  早くだれか食べんかいな。
 今日、  ええい、仕方がない、食べちゃおう。ぱくっ。

 こういうのを、いわゆる遠慮の塊というのでしょうか。
かつてはおいしそうなチョコのかたまりだったのに、三日前から、遠慮の塊に変身してしまいました。だれも手が出せない状態になってしまったのです。よりによって、箱のど真ん中のを残さなくともよいのに。たぶんこいつが一番おいしかったんじゃないかな。
 しかし、食べてしまってから、私は後悔したのでした。皆に責められるかも。どうしよう。
 そこで少々思案したのでした。
 残った空箱をどうしようか。捨ててしまうと、誰かがチョコを食べた、と明日大騒ぎになり、犯人探しが始まるかもしれない。では、机の上に空き箱を置いたままにしようか。そうするとたぶん、空になってしまったことに、だれ一人気がつかないだろう。だって、箱を開ける、ということは、食べよう、ということだから。だれも食べようとしないはずだから、だれも開けないはずだ。いや、だれかが食べようとするかもしれない、あるいは、だれか食べてしまったか、確認する人がいるかもしれない。チョコがないことに気がついて、大騒ぎになるかもしれない。いや、仮に誰かが箱を開けて、唯一のチョコがなくなったことを発見しても、おそらくだまっているだろう。だって、チョコがなくなったよ、といってしまったら、あんた、食べようとしたでしょう、と皆に責められるのが目に見えてますから。ふむふむ、ということは、このまま空箱を机の上に置きっぱなしが最も無難な方法か。
 とすると、次の大掃除の日まで、空箱が、我が物顔に机上の一番いい位置を占領するのか?