消えた一億円

 以前、高校生が金庫を盗み、びっくり仰天一億円はいってた、という事件がありました。その後の捜査で、実は一億円のうち九割以上が、口止め料、などの名目で、高校生グループ以外の手に渡っていたのではないか、との疑惑が浮上しているようです。短期間のうちに一億円を、飲み食いや旅費、贅沢品の購入だけで消費できるはずは無いので、消えた大金がほんとはどこへ行ったのか、警察も興味があるようです。

 先日、某政治家が、一億円の受領についてあれこれと追求されたようです。各種業界団体等から政治家に大金が動くのは、悲しい日本の常識。たまたまばれた時に、国会などで追求されることがありますが、それもたいていはセレモニーみたいなもんで、それで何かが変わることは期待出来ません。変わるのであれば、とっくの昔に日本の政治は変わっているはずですから。例えば一億円、ある政治家に渡ったとしても、彼がそれを認めることは、ほとんど期待出来ないでしょう。公衆の面前でその受領や行方を追求されても、知らぬ、存ぜぬ、記憶に無い。せいぜい認めたとしても、もしかしたらそうかもしれないが、よくわからない。と言わなければなりません。なぜなら、認めたが最後、他に累が及ぶことになりますから。
 先ほどの高校生の例のように、不正に入手した大金を、自分だけのものにしたかどうかは、疑問のあるところです。もちろんそのまま自分のポケットのみにいれる人もいるかもしれませんが、でもたぶんそういう人は、派閥の領袖や、組織のお偉いさんにはなれないでしょう。もらったお金の大部分が、その仲間に流れているかも。自分だけがとりあえず泥をかぶって、知らぬ存ぜぬ、を通せば、その他もろもろをかばうことができます。昔気質の日本人なら、そうするのではないでしょうか。悲しい日本人の習性。もちろん、贈賄側も、とりあえず、トップや直接の担当者が泥を被るだけで、その組織を守ろうとするようです。悲しい日本人の習性。もらいました、あげました、でもそれは、私だけの為ではなく、私の周りの人たち大勢の為なんです。といったが最後、それは、そのよって立つバックボーンを裏切ったことになってしまいます。裏切るよりは、黙りを選ぶのが日本人の習性。そこには、正義か否か、とは別の次元があります。個人を喚問してもほとんど意味はありません。その背景が問題ですから。
 今年は、組織の偉い人々が頭を下げることが多かったようです。自分の利益の為に不正を行った人も確かにいるとは思いますが、自分の所属する組織の為にそれを行う、周りの人を守るために結果的に不正を行ってしまった、という方が多かったように思います。個人の為ではなく、組織のため。結果的にそれが反社会的な行為になったとしても、組織を優先するようです。悲しい日本人の習性。
 いわゆる袖の下は、実は私たちの会費、あるいは私たちの組織や会社のお金。そして、それは、組織を守るため、組織の構成員を潤わそうという目的で、私たちの信頼出来る先輩がたが考慮して行ったこと。残念ながら、自分たちの組織しか見ていませんが。
 各種業界、団体、組織などが、同じようなことをし、その調整が政治だと勘違いされていた過去の日本。それと決別するのが、政治改革かもしれません。でもこれは組織の問題ではなく、最終的には、組織の構成員、各個人の意識の問題になってきます。政治家にお金を渡し、有利に動いてもらうのと、選挙のときに自分の業界や組織の為に動いてもらえるような人に投票することは、五十歩百歩。
 自分の属する業界に有利な法案が通ったとしても、日本丸が沈没してしまえば、すべておじゃん。もう、そういう状況になってきていると思うのですが、皆さんはどう思われますか?